日本の性風俗の歴史

江戸の吉原遊郭は明治になっても続き、官許を得た公娼が客をとっていました。警察では地図に「公娼」の空間を赤で囲み、「赤線」と言い、鑑札のない「私娼」、例えば夜鷹などの出没域を青で囲み「青線」と言っていました。吉原遊郭の定年は28歳で運好く生きていれば解放されますが、たいがいは「私娼」として生きたようです。
吉原の遊女は性病や梅毒、結核などで死ぬと、「人間なみに葬ると祟る」と言われ、犬や猫のように扱われました。近くの三ノ輪の浄閑寺の門前に大きな「投げ込み穴」が掘ってあり、遺体はそこに捨てられました。浄閑寺はそれを弔い、遊郭の組合から年単位でまとめて金銭を受け取っていました。
法律上は人身売買は禁止されていましたから、遊女たちは借金を返すための労働として本人の自由意思で鑑札を貰っているということになっていました。実質的には人身売買ですから、借金はなかなか返せないシステムでした。仲買人に多額の手数料を取られ、営業を始めても売上の75%が楼主に取られ、15%が借金返済に充てられ、残りの10%で生活しなければなりませんでした。そのなかから呉服代、化粧品代、洗濯代、湯銭などを出し、赤字となり、楼主から借金の追加をすることになるという仕組みでした。
病気になっても待遇はひどく、梅毒で髪が抜け落ちた遊女にカツラを被せて客を取らせたりしました。法律上は自由意思で遊女となったのですから自由廃業もできるはずでしたが、脱走した遊女が鑑札の登録の抹消の申請をすると、賄賂を貰っている警察は貸借関係の調査名目で楼主に連絡し、引き渡しまうという具合でした。

 

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